最近、湯浅誠「社会運動と政権 いま問われているのは誰か」(『世界』2010年6月号、岩波書店)を読みました。そのきっかけは活動家として色々と考えさせられることが多い関西労働者安全センター事務局ブログで紹介していたのをみたことにはじまります。
関西労働者安全センター事務局ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/koshc2000/MYBLOG/yblog.html湯浅さんの論文を読んでみると、私が取り組んでいるアスベスト問題が抱えている運動的な問題と重ねて考えさせられました。このブログ本体の題名も湯浅論文を基につけました。論文を読みながら考えていたのは大きく分けて次の二つのことです。
一つは、私がごく短い経験しか持っていなかったがゆえに運動において「霞ケ関と永田町へのアプローチ」(つまり官僚と政治家、そして周辺の人間たちへの働きかけ)が最重要との認識を持っていましたが、そのような意識に傾倒しすぎていた自分への未熟さ。二つ目は、水俣病問題に代表されるようにアスベスト問題においても発生している運動の分裂について。
一つ目の問題においては、湯浅さんは内閣府参与となって政府内部の「複雑さ、困難さ、厄介さ」を垣間みたと述べています。同時に、内閣府参与となる以前は政府内部の「複雑さ、困難さ、厄介さ」を無視して〝政府〝に対抗していたと振り返っています。これまでの私はよくよく考えてみれば政治家(立法)、官僚(行政)が抱える「複雑さ、困難さ、厄介さ」をほとんど無視して、湯浅さんが論文でも述べているように「権力を持っているのだから、本気になればできるはずだ」という非常に安易な理屈付けをして問題を捉えてきてしまったように思います。ある意味、思考停止状態だったとも言えます。
といっても、まだまだそれら「複雑さ、困難さ、厄介さ」を理解してはいませんし、その全体像を捉えている人はいるのか?とも思います。ともあれ、何事もそれらを抱えながら事態は進展し(時には後退もするでしょうが)、距離に例えれば1メートル先に理想があったとしても社会は1ミリずつしか進展せず、劇的な変化も日々の1ミリの刻み重ねから起こるものだと湯浅さんは主張しています。
永田町と霞ヶ関の住人たちが織りなす構造を安易に捉えてきたこと、「複雑さ、困難さ、厄介さ」は運動体内部にも存在していることの再認識、「世論形成」を真剣に考えてこなかったことなど、反省することばかりです。
二つ目の運動の分裂。これについても湯浅さんの指摘は示唆に富むものがあります。深くは述べませんが、「政党からの自立・各政党との対等な関係」「大衆参加の運動づくりへの努力」「1ミリを刻むことへの理解(1メートル先に行っていないからと言って1ミリを刻んだ運動への非難をしないこと)」「各運動団体の結束(融合)への可能性の発見」を意識して今後の活動に取り組んでいきたいところです。
ブログやtwitterをはじめたのは、私がこれまでに経験したことのない運動の開拓の意味もあります。
本日、開始したツイッターはこちら
http://twitter.com/sawadyiツイッターでは行政の審議会などの「リアルタイムつぶやき」とでも言うのでしょうか、をやりたいと考えています。その第一弾を金曜日の21日の午後3時からの石綿健康被害小委員会で実施しようと思います。興味があればぜひ、つぶやいてください。私もたくさんつぶやきます。
話がずれましたがまとめると、自分がかかわるあらゆる問題において様々な局面において社会を構成している「一人ひとり」が「何かしら」を問われていること忘れてはいけないということでしょうか。
前述の安全センターブログでは明日、判決が出る大阪・泉南アスベスト国家賠償裁判について、「判決日まで、マスコミの報道量も増えますが、はるかに重要なのは判決後です。国家の責任が問われた裁判とは、その構成員である国民の責任ある行動を求めた裁判だと思います」、とありました。
問題解決に一生懸命になりながらも、いろんな側面から捉えられる自分の立ち位置を忘れたくはないものです。