さてインドネシアから帰国したのが23日の朝10時過ぎ、その日の午後は私の職場の全国労働安全センターの事務所と同じビルに入っている「平野・亀戸ひまわり診療所」の20周年パーティーに参加。翌日のお昼過ぎに羽田から関空へ行き、そのまた翌日の25日の朝に関空を出発し約2時間でコリアへ到着。目的はコリアで新たに設立されるアスベスト問題に取り組むNGOの設立総会と記念のシンポジウムに参加することでした。4日間の日程で上記のこと以外に、コリアの被害者・支援者との意見交換会、両国の被害者合同の記者会見、日本がコリアに政治的に統治をしていた時代から開発されたアジア最大と言われたアスベスト鉱山跡地の見学などをしてきました。
記者会見のときの様子など、いろいろと報道されていますので以下をどうぞ
ハ ンギョレ新聞
http://www.hani.co.kr/arti/society/environment/445693.html
強 制徴用に石綿被害まで・・・在日同法家族の「代続きの受難史」
京 郷新聞
http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201010270023025&code=940100
在 日朝鮮人たち、石綿を吸って暮した
中央日報韓国語版。
http://news.joinsmsn.com/article/628/4575628.html?ctg
世代 を継ぐ石綿肺疾患の強制徴用同胞の子孫たち、日本政府相手に訴訟
財 経日報
http://news.jkn.co.kr/article/news/20101026/4407650.htm
連合ニュースが記事を配信しソウル新聞等に載っています。
http://www.yonhapnews.co.kr/international/2010/10/26/0602000000AKR20101026104100004.HTML?template=2088
「石 綿が雪のように…」日本泉南の韓国人の石綿被害事例
イ ンターネット新聞のプレシアン。
http://www.pressian.com/article/article.asp?article_num=50101028092341§ion=03
滞在時に一番うれしかったことは、なんと言ってもインドネシアで出会った中皮腫の患者さんと再会できたことです。同行していた泉南アスベスト国賠訴訟の原告の方からも「楽しそうやなぁ」と言われましたが、かなり陽気な感じになって話をしていたのだと思います。
彼女との出会いはいろんな意味で特別です。半プライベートな環境で実質的にはじめて英語を使った相手であり、はじめて会った海外の中皮腫患者さんであり、その当事者と不十分ではありながらも通訳を使わずに対話ができ、といった具合に個人的にインパクトのある出会いでした。
患者さんなので十分に体調がすぐれないと思いますが、明るく、少しでも外国の言葉を覚えようとする姿勢、他の被害者の意見をくみ取るのに必死にメモをとるなど、彼女のバイタリティーにはこちらが色々と刺激を受けます。
なかなか文字にすると上手に彼女との出会いで受けた思いを表現できているかわかりませんが、私にとってとても大切な存在です。
たとえば彼女が
「中皮腫患者と言っているだけで、本当は病気ではない」ということで嘘をついていても良い、とアスベストの患者さんと接していてはじめてそんな感覚を持ちました。それは単純に、人並みに今後10年、20年と生きていてほしいという私の思いから派生したものです。
彼女と会っているとき、何度か、「あぁ~この人もそう長くない時期に死んでしまうんやなぁ」と思うことがありました。
約1年半前に泉南地域のある男性患者さんがアスベスト肺を原因とする肺がんを引き起こし亡くなりました。個人的に多少の思い入れのある患者さんで、そのときに人が死ぬことの恐怖を覚えました。悲しみではなく、恐れです。
今まで自分と話ができた人がいなくなる。そのことが私にとっては恐ろしいことです。
少々、脱線気味になりますが、インドネシアにいるときに猫とじゃれていて引っ掻かれました。少し血が出ました。数十分後くらいから「狂犬病だいじょうぶかなぁ」と思い始め、インターネットで病気のことを調べるとものすごい恐怖に襲われました。「もしかしたら死ぬかも」と思いました。特段、処置などしていませんので可能性として、私は何ヶ月後かに狂犬病になって死ぬかもしれないです。
まぁ、それはそれとして今は対して気を病んでいませんが、引っ掻かれたその日などは「死への恐怖」で心がいっぱいでした。
なぜ「死」がこわいのか(これは自分の死についてですが)。なぜでしょうね。死んでからなにか大きな苦痛が待ち受けていると確認できるものもなく、単に個人としてはこの世界から少なくとも物質的に消えていくだけなのに、でもこわかったのです。
死ぬ前にやっておきたいと思ったことは、お世話になった人にお礼だけはしておきたいなぁと思い、いろんな人の顔が出てきました。
それともう一つ。映画のネタになりそうな恋愛をしたかった、ともw
ともあれ、事実として自分が死ぬことへの恐怖を感じたことは事実です。おそらく「死んだらどうなるか」がわからないことへの恐怖なのだと思います。かといってその答えを導き出すために誰かに教えを被るつもりもいまのところありません。
さておかしな方向に話がいってしまいましたが、コリアの女性の話へ戻します。
といっても、私の率直な思いとして、彼女に人並みに長く生きていてほしく、日本やコリア、あるいはその他の国で今後も笑って会える機会をこれからも多く持てたらよいなぁ、と思っているだけです。
そう、彼女をアスベストに暴露させた企業をこらしめたい!とか不十分な韓国政府へ文句を言いたい!という以前に上記の気持ちが強くあります。誤解を恐れずに言えば、被害者救済や制度改正なんてどうでもいいやーって思うくらい、第一に彼女が人並みに生きてほしいという思いがあります。
自分の意見を正当化させるわけではありませんが、こういう気持ちは大切にしたいと思います。自分も含めて、この種の系統の運動はときどき患者さんが置き去りにされて、なにか大きな運動をするときの名目だけで患者さんや家族が使われることが少なからずあると思います。もちろん患者さんの生活に結びつく制度改正運動は大切ですが、可能なかぎり当事者の気持ちを理解する努力をおこたらないで今後もこの仕事に関わっていければと思っています。
何事も、いきなり劇的な変化を示すわけではありません。思い通りに物事が進まないことによって歯がゆい気持ちになることもあります。しかし、わずかな変化をしっかり受け止め、一方で満足することなく、小さな進歩の積み重ねによる大きな変化を実感したいと思っています。なお、このタイトルは湯浅誠さんの論文から感じたことを参考に作成しています。
2010年10月30日土曜日
下心と英語能力の向上は共生できるか!?(インドネシアでの体験記)
だいぶ久しぶりの更新となりました。
が、このブログは書きたいときに書く(書ける余裕があるときに書く)、がモットーなのでよしとします。
さて、先週と今週はわたくしほとんど海外にいました。10月16日から22日まではインドネシア。25日から28日まではコリア。ともにアスベスト関連の出張です。
インドネシアはアスベスト禁止の国際ネットワークと労働災害の世界会議。コリアは現地で新たなアスベスト被害者支援組織が設立され、その設立総会と被害者交流会、アスベスト鉱山見学をしました。
インドネシアでは自身初の英語でのプレゼン(10分程度)とはじめて異国人と英語をつかってコミュニケーションをとりました。ちなみに中学・高校と私の英語の点数は平均20点。英検5級を取得しているだけですから、その実力たるや惨憺たるものです。
しかし、インドネシア・バンドンのホテルにつくなり、さっそく韓国やら香港の参加者と夕食を食べたのですが、なんと私と同行していた同じ職場の事務局長が日本語を遮断し、私を英語地獄へと落としました。その夕食で私は実質的に人生初の英語での日常会話をすることになり、その相手をしてくれたのがコリアから来ていた40代半ばの悪性腹膜中皮腫の女性患者です。
彼女も十分に英語を使える状態ではないので互いに英語の練習相手のような関係になりました(といっても、彼女のほうが私より多くの語彙力があります)。
翌日も会議はすべて英語、お昼ごはんのときも海外のメンバーと食事をともにし、一切日本語はつかいませんでした。ここではっきり言っておきますが、私に同行した事務局長はあえて私からとおざかり一緒に食事などしませんでした。私の英語の初プレゼンはインドネシア3日目の会議終了間際におこなわれましたが、その前後など、「あと数日間どうやってこの環境ですごそうかなぁ・・・。うわぁ~〇〇さん(事務局長)わざと離れてるわぁ(苦笑)・・・あぁ絶望・・・」といった感覚でしたw
英語のプレゼンは、私の英語能力相応に素人の感覚がでまくっていたようですが、
そうです!
プレゼンが終わった3日目の夜から私は積極的に英語を使うようになったのです!
理由は単純で、その日の夕食にニュージーランドから来ていた綺麗なお姉さんと夕食のテーブルが一緒になり、ものすごく興奮してきて、「こりゃ、どんどん会話せなあかんやろ~」という思いが出てきました。
インドネシアの国際会議がよかったのは、若い女性が10人以上いたことです。特に香港、韓国などから若い方が来ていて、不肖澤田としてはそんなことでテンションが高めになっていました。おそらく、若い女性がまったくいなかったら「もう来年の国際会議はぜったいにこない!」と思っていたと思います。
またこのようなことを書くと、「お前は何をしに国際会議にいっているんだ!」と怒られるかもしれないですが、でも私の正直な感覚なので後世のためにできるだけ感じたことを正確に記しておきます(思うことがあるひとは、なんなりとご意見をどうぞ)。
そこから多少仲良くなった女性には「ユーアーベリービューティフル」(あなたとてもきれいですね、のつもり)ということを私の会話の基本として、突き進んでいきました。まぁ、相手も私の雰囲気から存分に冗談が含まれていることを理解して、適当に相手をしてもらっていた感じでしょうか。
そんなこんなでインドネシアの国際会議は若い女性と会話できることにウキウキしながら(若い女性と話したいから無理にでも英語をつかっていた、という具合です)、「ぜったいにまた参加しよう!もっと海外にいきたい!」と思って終えることができました。
ひとまずここで区切り、コリア訪問の話と例のコリアの中皮腫女性患者との出会いの話を次回はします。
追伸
数ヶ月前、英語を覚えるには外国の彼女をつくるのがいい、と事務局長からいわれましたが、その言葉の重みを新ためて感じました。
が、このブログは書きたいときに書く(書ける余裕があるときに書く)、がモットーなのでよしとします。
さて、先週と今週はわたくしほとんど海外にいました。10月16日から22日まではインドネシア。25日から28日まではコリア。ともにアスベスト関連の出張です。
インドネシアはアスベスト禁止の国際ネットワークと労働災害の世界会議。コリアは現地で新たなアスベスト被害者支援組織が設立され、その設立総会と被害者交流会、アスベスト鉱山見学をしました。
インドネシアでは自身初の英語でのプレゼン(10分程度)とはじめて異国人と英語をつかってコミュニケーションをとりました。ちなみに中学・高校と私の英語の点数は平均20点。英検5級を取得しているだけですから、その実力たるや惨憺たるものです。
しかし、インドネシア・バンドンのホテルにつくなり、さっそく韓国やら香港の参加者と夕食を食べたのですが、なんと私と同行していた同じ職場の事務局長が日本語を遮断し、私を英語地獄へと落としました。その夕食で私は実質的に人生初の英語での日常会話をすることになり、その相手をしてくれたのがコリアから来ていた40代半ばの悪性腹膜中皮腫の女性患者です。
彼女も十分に英語を使える状態ではないので互いに英語の練習相手のような関係になりました(といっても、彼女のほうが私より多くの語彙力があります)。
翌日も会議はすべて英語、お昼ごはんのときも海外のメンバーと食事をともにし、一切日本語はつかいませんでした。ここではっきり言っておきますが、私に同行した事務局長はあえて私からとおざかり一緒に食事などしませんでした。私の英語の初プレゼンはインドネシア3日目の会議終了間際におこなわれましたが、その前後など、「あと数日間どうやってこの環境ですごそうかなぁ・・・。うわぁ~〇〇さん(事務局長)わざと離れてるわぁ(苦笑)・・・あぁ絶望・・・」といった感覚でしたw
英語のプレゼンは、私の英語能力相応に素人の感覚がでまくっていたようですが、
そうです!
プレゼンが終わった3日目の夜から私は積極的に英語を使うようになったのです!
理由は単純で、その日の夕食にニュージーランドから来ていた綺麗なお姉さんと夕食のテーブルが一緒になり、ものすごく興奮してきて、「こりゃ、どんどん会話せなあかんやろ~」という思いが出てきました。
インドネシアの国際会議がよかったのは、若い女性が10人以上いたことです。特に香港、韓国などから若い方が来ていて、不肖澤田としてはそんなことでテンションが高めになっていました。おそらく、若い女性がまったくいなかったら「もう来年の国際会議はぜったいにこない!」と思っていたと思います。
またこのようなことを書くと、「お前は何をしに国際会議にいっているんだ!」と怒られるかもしれないですが、でも私の正直な感覚なので後世のためにできるだけ感じたことを正確に記しておきます(思うことがあるひとは、なんなりとご意見をどうぞ)。
そこから多少仲良くなった女性には「ユーアーベリービューティフル」(あなたとてもきれいですね、のつもり)ということを私の会話の基本として、突き進んでいきました。まぁ、相手も私の雰囲気から存分に冗談が含まれていることを理解して、適当に相手をしてもらっていた感じでしょうか。
そんなこんなでインドネシアの国際会議は若い女性と会話できることにウキウキしながら(若い女性と話したいから無理にでも英語をつかっていた、という具合です)、「ぜったいにまた参加しよう!もっと海外にいきたい!」と思って終えることができました。
ひとまずここで区切り、コリア訪問の話と例のコリアの中皮腫女性患者との出会いの話を次回はします。
追伸
数ヶ月前、英語を覚えるには外国の彼女をつくるのがいい、と事務局長からいわれましたが、その言葉の重みを新ためて感じました。
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