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2011年2月25日金曜日

今年は何かが違う!!バレンタインデーのチョコについて。ついでに、今日24歳になりました。

こんにちわ。澤田です。

みなさんいかがお過ごしですか。まずとても素敵なものをおみせしましょう。



これは昨日、私がもらったバレンタインデーのチョコレートとめちゃくちゃ熱いラブレターです(笑)
これをご覧のみなさん!!こんな熱いラブレターをもらったことはありますでしょうか?

私は小学校1年か2年生のときにクラスでかなり可愛い子にラブレターをもらったとき以来の凄みを感じています。第二のモテ期到来でしょうか。特に今週はうれしいこと続きで今年はここ数年間とは違う期待感があります。ここ数年間、クリスマス、バレンタインデーは百貨店の洋菓子売り場でバイトをしていたなど散々なあり様でした。

そしてチョコレートはこんな感じなのです。




なんともうれしい限りです。

では、皆さんにもよい事があるように!

という終わりでは、何か私が自慢だけして浮かれたブログを書いているだけにとられますので、もう一枚写真をみせましょう。その前に確認ですが、間違っても自分で作ったラブレターではありませんので、そのような懸念はただちにぬぐいさってください。




さっきと同じやないか!と思う方はもう一度、「さわディーへ」から最後まで読んでみてください。

わかりましたか?

そうです、この写真には私にチョコをくれた方たちの名前が入っていますね。
私にチョコをくれたのは、中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会の方たちです。「東京のおねえさま」と書いてありますが、そこはあまり触れないようにしましょう(笑)

一応、落ちをつけたのですが、いかがでしょうか。

でも、こんな熱いラブレターなど今までもらったことがないので本当にうれしいです。
昨日、さっそくiPhoneで撮影して待ちうけ画面に設定してしまいました。できればチョコをくださった方と一緒に写った写真などあればよいのですが、それはまた機会があるときに紹介しましょう。

でも、本当に今年は何かが違うような感じがします。
そうそう、そして今日から24歳になりました。板橋区の帝京大学病院で誕生してはやくも24年が経ったと思うと感慨深いものがあります。

では、みなさんもお元気で。

2011年1月3日月曜日

新年あけましたね。

どうも、澤田慎一郎です。

いきなりですが、なんか自分の名前が気に入っていません。外国人がシンイチロウ、と言いにくいなと感じているのがその理由です。そんなことから仮に子供ができて女の子だったら国際的な感じで「ミジュ」とかにしようかな、とか今日は考えていました。どうでしょう?

そんなことで、私はこのごろ少し韓国文化に接しようと韓国ドラマをみています。「私の名前はキム・サムスン」というタイトルのドラマです。ツタヤにいけばたいがいあります。ありきたりな恋愛ドラマですが、結構おもしろくみています。主演の女優さん、どちらかと言えば好きなタイプです。

そんなことでなんで韓国文化に接しようとしているのかというと昨年、韓国の悪性中皮腫(アスベストの病気ですね)患者さんにインドネシアで出会ったのです。インドネシアではアスベストの国際会議がありました。リーさんという女性ですが、英語がそこそこできて、インドネシアで私の英語能力向上のための練習相手をしてくれていました。ちなみにインドネシアではほぼ日本語を使いませんでした(正確には、日本からの同行者があえて私をそのような立場においたのですが)。
インドネシアではリーさんやら、香港、韓国の活動家(といっても日本と違って若く、女性の比率が高かったのです)の方々と英語でコミュニケーションをとっていました。そして人生初の英語でのアスベスト問題のプレゼンテーションをしました。なお私の英語検定は5級取得レベルです。

ということもあり、リーさんとはその後10月末に韓国に行ったときに再開し、海外の活動家の方ともFacebookなどで交流を続けていることもあり、少し日本の外に目を向けようと思っています。

そうそう、なので今年は英語学習をがんばりたいと思っています。今年はアスベストの世界会議がインドで開催される予定ですのでなんとかそれまでにはもっと、もっと理解力を高めなければという具合です。そして3月にはリーさんが日本に来ます! それまでにも少しばかり英語を使えるようになった姿をみせなければ! と思っています。

実は英語のほかに、中国語と韓国語にちょっくら手を出しています。これは事実ですが、私は中国語で「あなた綺麗ですね」と「あなたかわいいですね」が言えます。というか、こんなものから覚えました(中国からの留学生の指導を受けたので間違いないです!)。これらは今年でどれだけ伸びるかわかりませんが、まぁまぁ頑張りたいと思います。これらもやはり昨年インドネシアや韓国に行って、英語が通じない方がいたのでなんとかコミュニケーションがはかれないものかとの思いからです。

さて、そこで今年の日本国内のアスベスト問題。個人的には石綿健康被害救済法の改正と大阪・泉南アスベスト問題の解決がどう運んでいくかが注目され、私も手を尽くしていきたいと思います。さて、どうなっていくことやら。とにかく政治に期待をかけすぎても仕方がないことがわかりましたので、やはり誰もやらなければ私がやる!という感じの意気込みを持って今年も邁進していきます。

そろそろ終わりにしようかなとおもいますが(そうです、もう今年の目標をだらだらつづっていたつもりです)、今年の個人的な目標をいかに箇条書き。

・病気を治す(あぁ、たぶんこれ病気だな、と思う症状があり真剣に通院しようと思っています。死ぬとか死なないとかそういうことではなく、もう少し楽に生きるために通院です)
・減量のために定期的にランニングをする(今日からはじめようかな、と思ってランニングシューズとウェアーを買いました。現在体重75キロ。1年前は73キロ。高校時代は68キロ。せめて70キロ前半に戻したいところです)
・映画館に行く(大学生の頃は時間・精神ともに足を延ばす余裕があったのですが社会人になってからすっかり足が遠のいてしまいました。私はミニシアターに行くのが好きです。複合型の映画館はおもしろいのあまりないし、映画館としての魅力にもかける感じがします。これは好みの問題ですね)


といったところでしょうか。私の好きな恋愛ネタが目標にないですが、こればかりは時の流れが決めることなので目標立てても仕様がないですね。
それと、かなり意識高く予想してましたが、今年は蒼井優さんから年賀状が届きました。まぁ、そこそこうれしかったですね。
それと、今年は司馬遼太郎にはまりそうです。昨年、「竜馬がゆく」を読み終え、いま「燃えよ剣」を読んでいます。興味ある方いたらまた絡んでください。


それとやっぱり、路上生活を強いられる人がいない社会を作りたいですね。これは何年もかけて考えなければいけない問題ですが、今、路上生活されている方もいますのでなんとかしたいですね。


今年も皆様の元気なお姿が拝見でき、会ったときには楽しくお話をしたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いします。

2010年10月30日土曜日

コリアの悪性腹膜中皮腫の患者さんと会っていて感じたこと

さてインドネシアから帰国したのが23日の朝10時過ぎ、その日の午後は私の職場の全国労働安全センターの事務所と同じビルに入っている「平野・亀戸ひまわり診療所」の20周年パーティーに参加。翌日のお昼過ぎに羽田から関空へ行き、そのまた翌日の25日の朝に関空を出発し約2時間でコリアへ到着。目的はコリアで新たに設立されるアスベスト問題に取り組むNGOの設立総会と記念のシンポジウムに参加することでした。4日間の日程で上記のこと以外に、コリアの被害者・支援者との意見交換会、両国の被害者合同の記者会見、日本がコリアに政治的に統治をしていた時代から開発されたアジア最大と言われたアスベスト鉱山跡地の見学などをしてきました。




記者会見のときの様子など、いろいろと報道されていますので以下をどうぞ

ハ ンギョレ新聞

http://www.hani.co.kr/arti/society/environment/445693.html
強 制徴用に石綿被害まで・・・在日同法家族の「代続きの受難史」

京 郷新聞
http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201010270023025&code=940100 
在 日朝鮮人たち、石綿を吸って暮した


中央日報韓国語版。
http://news.joinsmsn.com/article/628/4575628.html?ctg
世代 を継ぐ石綿肺疾患の強制徴用同胞の子孫たち、日本政府相手に訴訟

財 経日報
http://news.jkn.co.kr/article/news/20101026/4407650.htm

連合ニュースが記事を配信しソウル新聞等に載っています。
http://www.yonhapnews.co.kr/international/2010/10/26/0602000000AKR20101026104100004.HTML?template=2088
「石 綿が雪のように…」日本泉南の韓国人の石綿被害事例
イ ンターネット新聞のプレシアン。
http://www.pressian.com/article/article.asp?article_num=50101028092341§ion=03 


滞在時に一番うれしかったことは、なんと言ってもインドネシアで出会った中皮腫の患者さんと再会できたことです。同行していた泉南アスベスト国賠訴訟の原告の方からも「楽しそうやなぁ」と言われましたが、かなり陽気な感じになって話をしていたのだと思います。

彼女との出会いはいろんな意味で特別です。半プライベートな環境で実質的にはじめて英語を使った相手であり、はじめて会った海外の中皮腫患者さんであり、その当事者と不十分ではありながらも通訳を使わずに対話ができ、といった具合に個人的にインパクトのある出会いでした。

患者さんなので十分に体調がすぐれないと思いますが、明るく、少しでも外国の言葉を覚えようとする姿勢、他の被害者の意見をくみ取るのに必死にメモをとるなど、彼女のバイタリティーにはこちらが色々と刺激を受けます。



なかなか文字にすると上手に彼女との出会いで受けた思いを表現できているかわかりませんが、私にとってとても大切な存在です。


たとえば彼女が

「中皮腫患者と言っているだけで、本当は病気ではない」ということで嘘をついていても良い、とアスベストの患者さんと接していてはじめてそんな感覚を持ちました。それは単純に、人並みに今後10年、20年と生きていてほしいという私の思いから派生したものです。



彼女と会っているとき、何度か、「あぁ~この人もそう長くない時期に死んでしまうんやなぁ」と思うことがありました。



約1年半前に泉南地域のある男性患者さんがアスベスト肺を原因とする肺がんを引き起こし亡くなりました。個人的に多少の思い入れのある患者さんで、そのときに人が死ぬことの恐怖を覚えました。悲しみではなく、恐れです。

今まで自分と話ができた人がいなくなる。そのことが私にとっては恐ろしいことです。



少々、脱線気味になりますが、インドネシアにいるときに猫とじゃれていて引っ掻かれました。少し血が出ました。数十分後くらいから「狂犬病だいじょうぶかなぁ」と思い始め、インターネットで病気のことを調べるとものすごい恐怖に襲われました。「もしかしたら死ぬかも」と思いました。特段、処置などしていませんので可能性として、私は何ヶ月後かに狂犬病になって死ぬかもしれないです。


まぁ、それはそれとして今は対して気を病んでいませんが、引っ掻かれたその日などは「死への恐怖」で心がいっぱいでした。


なぜ「死」がこわいのか(これは自分の死についてですが)。なぜでしょうね。死んでからなにか大きな苦痛が待ち受けていると確認できるものもなく、単に個人としてはこの世界から少なくとも物質的に消えていくだけなのに、でもこわかったのです。



死ぬ前にやっておきたいと思ったことは、お世話になった人にお礼だけはしておきたいなぁと思い、いろんな人の顔が出てきました。

それともう一つ。映画のネタになりそうな恋愛をしたかった、ともw



ともあれ、事実として自分が死ぬことへの恐怖を感じたことは事実です。おそらく「死んだらどうなるか」がわからないことへの恐怖なのだと思います。かといってその答えを導き出すために誰かに教えを被るつもりもいまのところありません。



さておかしな方向に話がいってしまいましたが、コリアの女性の話へ戻します。



といっても、私の率直な思いとして、彼女に人並みに長く生きていてほしく、日本やコリア、あるいはその他の国で今後も笑って会える機会をこれからも多く持てたらよいなぁ、と思っているだけです。

そう、彼女をアスベストに暴露させた企業をこらしめたい!とか不十分な韓国政府へ文句を言いたい!という以前に上記の気持ちが強くあります。誤解を恐れずに言えば、被害者救済や制度改正なんてどうでもいいやーって思うくらい、第一に彼女が人並みに生きてほしいという思いがあります。



自分の意見を正当化させるわけではありませんが、こういう気持ちは大切にしたいと思います。自分も含めて、この種の系統の運動はときどき患者さんが置き去りにされて、なにか大きな運動をするときの名目だけで患者さんや家族が使われることが少なからずあると思います。もちろん患者さんの生活に結びつく制度改正運動は大切ですが、可能なかぎり当事者の気持ちを理解する努力をおこたらないで今後もこの仕事に関わっていければと思っています。

下心と英語能力の向上は共生できるか!?(インドネシアでの体験記)

だいぶ久しぶりの更新となりました。




が、このブログは書きたいときに書く(書ける余裕があるときに書く)、がモットーなのでよしとします。


さて、先週と今週はわたくしほとんど海外にいました。10月16日から22日まではインドネシア。25日から28日まではコリア。ともにアスベスト関連の出張です。

インドネシアはアスベスト禁止の国際ネットワークと労働災害の世界会議。コリアは現地で新たなアスベスト被害者支援組織が設立され、その設立総会と被害者交流会、アスベスト鉱山見学をしました。



インドネシアでは自身初の英語でのプレゼン(10分程度)とはじめて異国人と英語をつかってコミュニケーションをとりました。ちなみに中学・高校と私の英語の点数は平均20点。英検5級を取得しているだけですから、その実力たるや惨憺たるものです。

しかし、インドネシア・バンドンのホテルにつくなり、さっそく韓国やら香港の参加者と夕食を食べたのですが、なんと私と同行していた同じ職場の事務局長が日本語を遮断し、私を英語地獄へと落としました。その夕食で私は実質的に人生初の英語での日常会話をすることになり、その相手をしてくれたのがコリアから来ていた40代半ばの悪性腹膜中皮腫の女性患者です。



彼女も十分に英語を使える状態ではないので互いに英語の練習相手のような関係になりました(といっても、彼女のほうが私より多くの語彙力があります)。

翌日も会議はすべて英語、お昼ごはんのときも海外のメンバーと食事をともにし、一切日本語はつかいませんでした。ここではっきり言っておきますが、私に同行した事務局長はあえて私からとおざかり一緒に食事などしませんでした。私の英語の初プレゼンはインドネシア3日目の会議終了間際におこなわれましたが、その前後など、「あと数日間どうやってこの環境ですごそうかなぁ・・・。うわぁ~〇〇さん(事務局長)わざと離れてるわぁ(苦笑)・・・あぁ絶望・・・」といった感覚でしたw



英語のプレゼンは、私の英語能力相応に素人の感覚がでまくっていたようですが、


そうです!

プレゼンが終わった3日目の夜から私は積極的に英語を使うようになったのです!

理由は単純で、その日の夕食にニュージーランドから来ていた綺麗なお姉さんと夕食のテーブルが一緒になり、ものすごく興奮してきて、「こりゃ、どんどん会話せなあかんやろ~」という思いが出てきました。

インドネシアの国際会議がよかったのは、若い女性が10人以上いたことです。特に香港、韓国などから若い方が来ていて、不肖澤田としてはそんなことでテンションが高めになっていました。おそらく、若い女性がまったくいなかったら「もう来年の国際会議はぜったいにこない!」と思っていたと思います。

またこのようなことを書くと、「お前は何をしに国際会議にいっているんだ!」と怒られるかもしれないですが、でも私の正直な感覚なので後世のためにできるだけ感じたことを正確に記しておきます(思うことがあるひとは、なんなりとご意見をどうぞ)。



そこから多少仲良くなった女性には「ユーアーベリービューティフル」(あなたとてもきれいですね、のつもり)ということを私の会話の基本として、突き進んでいきました。まぁ、相手も私の雰囲気から存分に冗談が含まれていることを理解して、適当に相手をしてもらっていた感じでしょうか。

そんなこんなでインドネシアの国際会議は若い女性と会話できることにウキウキしながら(若い女性と話したいから無理にでも英語をつかっていた、という具合です)、「ぜったいにまた参加しよう!もっと海外にいきたい!」と思って終えることができました。

ひとまずここで区切り、コリア訪問の話と例のコリアの中皮腫女性患者との出会いの話を次回はします。


追伸

数ヶ月前、英語を覚えるには外国の彼女をつくるのがいい、と事務局長からいわれましたが、その言葉の重みを新ためて感じました。

2010年8月25日水曜日

これがアスベスト遺族の現状(Kさんのケース3)

また投稿の間があいてしまった・・・。反省。

Kさんのケースの続きです。
ポイントとしてはKさんの旦那さんはアスベストを直接あつかっていないのに死亡時には肺がんと診断されて42歳で死亡した、ということです。ちなみに公平性を担保するために言うと、旦那さんは20歳くらいから一日に2,30本のたばこを吸っていました。

さて、旦那さんが亡くなって、Kさん一家の収入は無くなります。1997年に亡くなった時点のKさん一家の家族構成は
①Kさん
②長女―15歳
③次女―12歳
④長男―9歳
⑤次男―7歳


さて大変です。収入が途絶えて子ども4人を育てなくてはならなくなった。Kさんはこの状況をどう乗り切ったのか・・・。まず預貯金の切り崩し。厚生年金の遺族年金がKさんに現在も月換算で約9万円支給、子どもには一人につき18歳になるまで月換算で約1万円が支給。

とうことで大雑把に言うと月10万円の社会保障と預貯金で生活費をまかなっていたことになります。子ども4人を育てるのに。幸い、持家だったことでローン・家賃の支払いはありませんでした。
また、子どもの進学費用なども学資保険に加入していたこともあり、なんとかしのげたようです。この保険加入にもいろいろ逸話があって長女は夫婦で加入していたのですが、次女の分は義理の母が旦那さんにして支払っていてくれていたり、長男の分はKさんはお金がないからは入れないと抵抗していたのに旦那さんが強引に入ったりと、限定的・結果的に言うと良かった面もありました。次男については加入していないので何の補助もありませんでした。

そんなこんなで、Kさんのお子さんたちは立派に現在は社会人になっていますが、長女は高校進学してすぐにアルバイトをはじめたり、部活動の加入を断念したり、家計の状況に左右されていたことがうかがえます。ほかのお子さんたちについてもおそらく日常のさまざまな生活が制限されていたことが想像できます。
そうそう、長女は結婚するらしいですが、それに関わる資金援助などもKさんはできないと言ってました。


2006年3月にアスベスト救済法ができて遺族一時金と特別葬祭料合わせて約300万円がKさんには支払われました。この支給決定にあたって国は旦那さんの病気を悪性中皮腫と認定しました。つまり死亡診断の肺がんは誤りで、アスベストと関連した生活歴とを勘案するとほぼ100%、アスベストが原因と想像できます。
ただ、2000年からKさんは旦那さんの死亡はアスベストとの関連があるということで現在のリゾート・ソリューションと裁判をしていましたが、最高裁判所でアスベストとの関係を否定してしまわれています。これは時期的な問題や司法制度の関係などいろいろ言いたいことはありますが、少々息切れ。


みなさんに想像してほしいのは42歳で家計を支えていた人間がいなくなって4人の子供を育てることがどういうことか、42歳で旦那さんをなくしたKさんはじめお子さんたちの精神的なつらさ、そこから連鎖的に発生する病気や性格の変化など、一面では見えにくい問題がさまざまに生じてくるということです。


で、最後に言いたいのが、これで300万円が妥当なの?っていうことです。たとえば労災であればもっと手厚い支給なるし、そうなれば会社から少なくとも数千万上積み補償があるし・・・。

あいだ置きすぎて歯切れわるくなりました。すみません。少しでも考えていただく材料になれば幸いです。
Kさんごめんなさい。

2010年8月18日水曜日

これがアスベスト遺族の現状(Kさんのケース2)

さて続き。

前回の投稿で主張したのはアスベスト被害の救済に格差があるということ。
そしてリゾートトソリューションのアスベスト問題の社会的な説明はクボタに比べておろそか、ということ。

Kさん例の続き

Kさんの旦那さんの病気の発見、病状は以下のような経過をたどりました。

1996年(平成8)7月くらいから風邪をひき、咳がとまらなくなった。その2、3年前から咳が頻繁に出ていた。1996年8月16日に大宮の某病院を受診。「肺がぼろぼろ」と医師に言われる。肺がんとはこの時点では告知されていなかった。それ以前の8月の最初くらいに海に遊びにいっていたことを告げると、「よくこの身体で海にいけたな」とも言われた。のちにわかったことだが、初診時のカルテに「間接ばくろの疑いあり」と記載されていた(間接ばくろ、については後で説明なう!)。実は初診日の4、5年くらい前に家族で行った山登りのときから息が苦しそうだった、とKさん。同年9月20日ごろ同病院に検査入院。肺がんの可能性があると指摘される。


同年12月末に、はじめていく東京の某病院を受診(なお、これ以後は東京の同病院を継続受診)。ここでの検査の結果、リンパにも転移しており手術はできないと告げられる。この時点で「肺がんか中皮腫(ちゅうひしゅ)」といわれた。12月の診断結果後は1カ月に1回くらい通院。その間も仕事は続け、職場のあった東京・荒川まで通っていた。1997年の5月の連休明けからは2、3日に一回は放射線治療をしていた(左の肺にがんがあると指摘されていた。左わきの下からかたいものがでてきていた。そこを放射線治療していた。痛みがすこしやわらぐ感じがあったので継続)。

同年6月4日に通院すると心臓に水がたまっていることを指摘される。この時点から死亡まで入院。同年9月27日死亡。死亡診断書には「肺がん」と書かれていた。
 
 
上記のとおりKさんの旦那さんは1997年に死亡しました。そこで、「間接ばくろ」のことを説明だう!ちなみに「ばくろ(曝露)」とは何かの物質を吸引するようなことを指します(悪い意味合いで使用される)。
 
 
前回の報告にも記したように旦那さんの父親は20数年間アスベストを扱う工場で働いていました。
でも、この旦那さんは働いていない・・・。
 
関連があるとして疑われるのは、父親が作業現場から持ち帰ってきた作業着にアスベストが付着していて、それを洗濯前に何らかの形で接触したか、洗濯作業時に接触したか、その結果アスベストを吸引したことが考えられます。実際に同様の事例は全国各地で起こっていて(だから家事をしていた女性にも被害者がいます)、Kさんによれば旦那さんは「義父が作業で使ったマスクを家に持ってきて、風呂敷に入れて廊下においていたものを幼少時にふざけて着用していた経験がある」とのことです。
 
 
本人は仕事で直接アスベストを扱っていないけど、家族などがアスベストを扱っていて何らかの形をとおして被害にあうケースを「間接ばくろ」とこの業界では分類しています。
ちなみにその他のばくろの種類、アスベストを仕事で直接扱っていた「直接ばくろ(職業ばくろ)」、本人や家族はアスベストを扱っていないのに居住地や通勤先にアスベスト工場があり、そこから大気中に放出されたアスベストを吸引してしまった「環境曝露」(場合によっては「近隣ばくろ」ともいいます。工場が家からものすごく近かった場合など)があります。
 
続きはまた。
 
Kさんの旦那さんはアスベストを直接あつかっていないのにアスベスト被害で40代にして亡くなった、ということだけ押さえておいてください。

これがアスベスト遺族の現状(Kさんのケース1)

よし、ここ数日、日曜日に野球をして身体を少し激しく動かした影響か、疲れ気味だったが今日は被害を伝える作業をする!そしてこれは厚生労働省や環境省の政務三役の先生にも読んでもらいたい。ちなみに大谷信盛政務官にはツイッターでフォローしてほしいと要望を出したがいまだフォローされていない(おそらく今後もないだろう)。
でもこのブログはツイッターで大谷先生と厚生労働省の山井政務官には名前をつけてツイートして案内しているので見ている可能性はある。だからいつまでも伝える!

さて、今回紹介したいのは埼玉県に住んでいるKさん。先週の木曜日にインタビューをした(アウトプットがおそい!すみません(+_+)×3)

Kさんの基本的な情報をまずは提示。
・Kさんはアスベスト被害者の遺族。被害を受けたのは旦那(1997年に死亡。享年42歳)。旦那の父(以下、義理の父)もアスベストが原因の肺がんで死亡(1983年死亡。55歳)。
・義理の父は埼玉県大宮にあった日本エタニットパイプ(株)大宮工場(現・リゾートソリューション)の従業員として20数年間働いた。
・Kさんの旦那さんにアスベストを直接扱う職歴はなし。

さて、ここでまず皆さんに第一に伝えたいのが、多くのアスベスト患者さんが頻繁に訴えている「救済格差」が生じている問題だということ。
端的に言えば、義理の父は会社も加害責任を認めて企業独自の補償をしましたが、旦那さんについては「従業員ではない」ことが理由とされ、会社から補償はありません。少し脱線すると、リゾートソリューションという企業は非常に不誠実ですね。はっきり言います!不誠実です。
何をもとにこれだけ強く言うかといえば、クボタとの対応が全然ちがいます(別にクボタが立派と言うつもりはない)。クボタは定期的にどの程度の被害者に補償をしてきたのかを社会に向けて提示しています。
一方でリゾートソリューションは2009年の9月に高松の工場(エタニットパイプは大宮の他に高松と鳥栖にも工場がありました)で生じたアスベスト被害への賠償を高松地裁で命じられ、地裁判決を原告・被告双方が受け入れました(厳密には判決に基づいた形で別途企業補償を上積みさせて双方の話し合いによって和解)。この時点で社会へ向けて一定の報告をすべきですが、2008年で報告の提示が終わっており、この件については何も触れられていません。むしろ、2008年の報告内容も調査もせずにあたかも自分たちには過失がなかったかのような内容。こういう会社は社会から見捨てられてしかるべきですね(私はアスベスト被害を出したからここで怒っているのではなく、そのことに向き合っていない姿勢を非難しています)。以下で事実確認をしていただければと思います。

リゾートソリューションのHP
http://www.resol.jp/resol/info/index.html

クボタHP
http://www.kubota.co.jp/kanren/index.html

旧エタパイじん肺訴訟
http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/social/article.aspx?id=20090915000103


というような体質の会社とKさんは争っていくことになるのですが、続きはまた。