一日遅くなりましたが、昨年6月6日の出来事を少しだけ記します。
昨年の6月6日の未明に大阪・泉南地域に住んでいたアスベスト患者さん(以下、Sさん)が亡くなりました。私にとって、自分が知っているアスベスト患者さんの中ではじめての死亡者が出たという、かなりショッキングな出来事でした。
前日、5日の朝。他のアスベスト患者さんの関係者からSさんの具合が悪く、病院に行っても奥様も会ってくれないので病院にお見舞いに行ってほしいと電話がありました。私は学生時分から患者さんたちとお付き合いしていて、Sさんの奥様とも顔なじみであり、これといった肩書などありませんでしたので色んなことが話やすい立場にあったのだと思います。私は出張で東京にいましたがお昼に仕事が終わってすぐに飛行機に乗ってSさんが入院されていた和歌山の病院に直行しました。
Sさんの奥さんは日頃、明るくとても元気の良い方でしたが、私が病室のドアを開けてベットの横で座っている奥様の表情をみたときはまるで別人のように力が抜けきっていました。Sさんはすでに意識のない状態で酸素吸入器をされながら、ベットに寝ていました。奥様と顔を合わせるなり、互いに泣き出していました。
小一時間のお見舞いを終えて、その日は家に帰りました。日付が変わって6月6日の午前2時半くらいだったと思います。奥様から電話があり、「ありがとうね」と第一声がありました。最初はお見舞いのお礼の電話だと思いましたが、その後、亡くなられたことを伝えられました。何をどうしてよいかわからず、私が何かをしたところで何も変わらないのですが、とにかく外に出てタクシーを拾って泉南市にあるSさんの自宅に向かいました。
私がSさんの家についたころ、Sさんも病院から運ばれてこられたところでした。
奥様も含めて何人かのお身内の方とお話をさせていただき、私は身内でもなんでもないのでお顔を拝見させていただくことは控えました。今考えるとなにも考えずご自宅にお伺いしたことが恥ずかしいばかりです。
もうあれから一年かという感じで、私にとっては泉南アスベスト国賠の判決以上の衝撃があったように思います。一年前の6月6日前後に、私はかなり衝撃的なご家族の苦しみの一端を見て、亡くなられあと私はSさんの死を頭の中で可能な限り意識しないようにしました。本当につらくて、悲しくて、それらから解放されるには意識しないことが一番だと思い、私が死の直前・直後に見たもの感じたものは思い返そうとしませんでした。
まだまだ怖くて、あのときのこと、Sさんの死と真正面から向き合える余裕はありません。
奥様はSさんの死後、泉南アスベスト国賠訴訟に遺族原告と加わりました。今では原告団を引っ張っていく一人として、いつも涙ながらに力強くSさんの無念を訴えておられます。
アスベスト問題の活動に携わっている私としては、患者さんとご家族と向き合う努力を今後も続けていきたいと思います。すごくしんどい面もありますが、それが活動の原点だと思っています。

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