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2010年6月28日月曜日

クボタショックから5年

先週の土曜日に尼崎の小田公民館で開催された「クボタショックから5年」の尼崎集会に参加してきました。

みなさんは「クボタショック」をご存じですか?簡単に説明しましょう。
私が大学に入学した2005年のことです。JR尼崎線の脱線事故が4月にありました。すごく印象に残っています。そして6月末からだったと思います。それからその先数カ月間、毎日のように「アスベスト」「石綿」という文字を私は見ていました。

事の発端は何かというと、尼崎にあるクボタにおいて退職者も含めた従業員に多数のアスベスト被害者が出ているという事実を6月30日(だったかな?)の夕刊で毎日新聞がすっぱ抜いたのです。クボタでは1970年ごろまで水道管を製造し、その原料にアスベスト(しかも毒性が最も強い青石綿)を使用していたのです。たしかその日の報道ステーションでトップニュースとなり、翌日の大手新聞5社は一面トップでこの事実を掲載していたと思います。
それから従業員だけでなく、周辺住民にも被害がでているということも発覚し、関係者のみなさんも含めて社会がアスベストパニックの渦の中に入っていったわけです。

といった一連の動きがあり、それから5年を迎えたわけです。
私は当時、大学生で、アスベスト問題に全く関心がなかったですが、とにかく新聞をのぞいていてアスベストの文字が事あるごとにあったことは印象深く覚えています。その後、私は公害問題に関心を持ち、大阪・泉南地域のアスベスト問題の調査をはじめることになります。
調査地域は泉南でしたが、何かのきっかけ(思い出せません(>_<))で私は尼崎の患者さんの集まりに顔をだすようになっていました。 尼崎の患者さん、ご遺族のみなさんと集会で顔を合わせること、飲みにいくこと、私にとって今でもすごく楽しい時間です。泉南の皆さんと比べて個別の患者さん・ご遺族のみなさんとは被害についての話をまともにできる関係ではないので、集会などで発言される機会の話を中心に被害については学んできました。 土曜日の5周年の集会は午後12時半から始まって、最初の30分くらいは過去の報道を流していました。私の気になっている、あるおばあちゃんの映像も流れていました。その方はご遺族で、旦那さんを悪性中皮腫でなくされ、その後まもなく娘さんまでもが暴露経路が不明な形で悪性中皮腫にり患し死亡されたというケースの方です。亡くなった娘さんのお子さんと一緒に暮らしていて一番下のお孫さんはまだ成人していないので、なんとか成人するまではしっかり面倒をみてあげたいといつも訴えておられます。 と、そういう話はこれまでおばあちゃんから何度か聞いていたのですが、この前の集会の映像ではじめて亡くなられた娘さんのお顔を拝見して、すごく似てるんですねおばあちゃんと(親子だから当然なのですが)。顔を見たら、おばあちゃんから聞いていた話とクロスして、胸にこみ上げるものがありました。 他にも尼崎で知り合った方の中には私の母親と同じ年齢くらいで仲良くさせて頂いている女性の方、おじさん、おばちゃん、おじいちゃんがたくさんいます。尼崎で学ばせてもらったことがたくさんあります。 私が言うのも変ですが、泉南の被害者は間違いなく尼崎の皆さんに引っ張られてここまでたたかってこれたと思っています。私が尼崎で会う多くの患者さん・ご遺族は「まだ救済を受けられていない人たちがいる」という強い思いで活動を継続し、泉南の運動も大いに盛りたててくださりました。
これから東京で活動することになりますが、そんなみなさんの思いをどんな立場になっても忘れることなく、活動していきたいと思います。尼崎の患者さん、ご家族・ご遺族のみなさんが示してくださった姿を私は受け継いでいきたいです。


最後に、いろんな人たちに引っ張られてここまで来て、判決後は泉南アスベストのたたかいを本当の意味で自分たちの闘いにまで持ってきたすばらしい原告のみなさんと撮った写真を掲載します。

ちなみに動画もはじめました。YouTubeは以下のサイトからどうぞ

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